織田 信長
おだ のぶなが
1534-1582
享年49歳。


名称:吉法師(きっぽうし)
    三郎、上総介、彈正忠、
    尾張守、従三位権大納言兼
    右近衛大将、正三位内大臣、
    正二位右大臣
居城:尾張那古野城→尾張清洲城→
    尾張小牧城→美濃岐阜城→
    近江安土城


■1534年 織田信秀の嫡子として、
  尾張那古野で誕生。

■1546年 13歳にて元服する。

■1548年 父・信秀の外交戦術によ
  り、斎藤道三の娘・濃姫と結婚。

■1551年 父・信秀の死により織田
  家の家督を継ぐ。
  父の葬儀の席に正装姿にならず、
  荒姿で出席。お香の灰を仏壇に
  投げつけるという”うつけ”振りを
  諸将の前で披露した。

■1555年 清洲城を占拠。

■1559年 岩倉城を攻略。織田家を
  統括し、尾張一国を統一。

■1560年 桶狭間の戦いで敵の総
  大将・今川義元を討ち取り、勝利
  する。

■1567年 美濃国の大名・斎藤龍興
  を追放し、美濃一国を征服。井ノ
  口を岐阜と改めて、ここに本拠を
  移す。
  同時に、「天下布武」の印判使用
  を始める。

■1568年 足利義昭を擁し、7万余り
  の大軍を率いて上洛を目指す。
  途中、伊賀の大名・六角承禎(ろ
  っかくじょうてい)の抵抗にあうが
  柴田勝家らの活躍でこれを排除。
  上洛戦を連勝に飾って、上洛を
  果たす。

■1570年 織田との同盟を破棄した
  浅井氏と上洛命令を無視した
  朝倉氏を攻め、姉川の戦いが
  起きる。
  緒戦は苦戦を強いられたが、
  徳川軍の善戦で勝機を掴み、
  浅井・朝倉連合軍を撃破。
  織田・徳川連合軍が勝利をお
  さめた。

■1571年 浅井・朝倉氏に味方
  した延暦寺を焼き討ちにする。

■1573年 武田信玄の西進に呼
  応して、将軍・足利義昭が挙兵
  するも、信玄の死去により、反
  乱は信長に鎮圧される。
  足利義昭は、京より追放され、
  ここに室町幕府は滅亡す。
  足利義昭は、毛利氏を頼る。

■1574年 長島一向一揆を討伐す。

■1575年 越前一向一揆を討伐す。
  三河の地長篠にて、織田・徳
  川連合軍は、武田勝頼が率い
  る戦国最大の騎馬軍団と対決。
  鉄砲約3000挺を用いて、武
  田軍の名だたる武将を討ち取
  り圧勝。
  この長篠の戦いによる圧勝に
  より、織田信長は天下統一に
  突き進む。

■1576年 信長は、近江国安土に
  安土城の建造に着手。美濃国
  岐阜から本拠地を近江国安土
  に移す。

■1577年 信長は、羽柴秀吉を播
  磨へ、明智光秀を丹波へ進軍
  させ、本格的に中国攻略に着
  手する。

■1580年 本願寺と毛利氏との
  連携を断ち切り、本願寺を降
  伏させる。
  本願寺攻めの総大将を務め
  た、織田家家老・佐久間信盛
  を職務怠慢として追放処分に
  処す。

■1581年 信長は京都で盛大な
  馬揃えを挙行し、信長の威容
  を天下に示した。

■1582年 信長は宿敵・甲斐武
  田氏を滅亡させ、ついで、四
  国攻略の派兵を丹羽長秀ら
  に命じる。
  中国攻め司令官を務める羽
  柴秀吉から毛利軍の総力軍
  が動いたと知らせを受ける。
  信長は、この機会に毛利本
  軍を壊滅させるべく、明智光
  秀ら近畿諸将に中国攻めの
  準備を命じる。

■本能寺に入った信長は、公家
  を招いて、自身が天皇の職に
  就けるかどうか問いただして
  いる。
  ついで、堺などから商人を招
  いて茶道具を披露している。
  天下も6割方織田の旗がひる
  がえったことで信長の天下統
  一という覇業達成が目前に迫
  った。
  しかし、6月2日未明、中国攻
  めに向かったはずの明智光
  秀率いる1万3000が信長の
  居る本能寺へ攻め込んだ。
  光秀の謀反により織田信長
  は自刃。享年49