小早川 隆景

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小早川 隆景
こばやかわ たかかげ
1533-1597
享年65歳。

名称:徳寿丸、又四郎、従五位下、 侍従、参議、正四位下、従三位、 権中納言

居城:安芸竹原城→安芸新高山城→ 備後三原城→筑前名島城

■1533年、毛利元就の三男として 誕生。

■父・元就の巧みな外交戦術により、 竹原小早川家へ養子に出される。

竹原小早川家を継いだ隆景は、 元就の策謀により、沼田小早川家 へ再び養子となり、竹原・沼田の 両家の当主として、小早川家を 統一した。

若いながら父・元就譲りの智勇を 発揮して、揺れる小早川家を統 治した。

■元就に従い、数々の合戦に参加。 厳島の戦いでは、隆景は目覚し い活躍をした。

まず、村上水軍の長・村上武吉 の協力を取り付けるために小早 川家重臣・乃美宗勝を遣わし、 これを成功させる。

陶晴賢は厳島制圧をもくろみ、 大軍を擁して、船団にて厳島上 陸を果たす。

隆景は陶軍船団に筑前からの 援軍だと偽り、隆景が率いる水 軍を陶水軍の停泊地のど真ん 中に乗り付けた。

夜明けとともに背後の山を越え て陶軍を奇襲する毛利本隊に 呼応して、海岸に停泊する陶水 軍の船団に火を放ち、上陸して いる陶軍の退路を断った。

続いて、海岸から陶軍を攻め、 陶の大軍を壊滅させた。

この戦果は隆景の機転さと的確 な戦況把握、すぐれた指揮統率 能力をもって、はじめて成し遂げ る事ができる功績といえる。

■以後、隆景は元就に従い、尼子 氏や大友氏など強敵と歴戦した。

毛利兄弟では一番、父・元就の 智勇の才を強く受け継いだ隆景 は、外交面や戦況打開などの奇 策を発する毛利軍の名軍師とし て、大役を担っていく。

■元就没後、織田氏の中国侵攻に 対抗すべく、山陽方面の司令官 を勤め、秀吉率いる織田軍と拮 抗した。

■信長倒壊の跡、秀吉が台頭して くると毛利氏との強い友好関係 を望む秀吉は、使者を幾度となく 毛利氏に送り、その外交応対に 隆景が活躍した。

秀吉の毛利家厚遇の姿勢と天下 席巻の才を見極めた隆景は秀吉 への全面協力を毛利家の方針と すべきと主君・毛利輝元に進言。

隆景のこの主張は通り、毛利家の 政策方針と決まった。

毛利・豊臣の両家の外交は隆 景と安国寺恵瓊の二人が全権 を持って対応することとなった。

■秀吉の四国・九州平定戦に従軍 した隆景は、目覚しく活躍。
秀吉との相性もよく、秀吉お気に 入り武将の一人となる。

この隆景の天下人・秀吉との密接 な関係は、そのまま、毛利宗家の 安泰を意味していた。

■毛利宗家主君・毛利輝元に実子 がいないことに目をつけた秀吉 は、甥の羽柴秀俊を輝元の養子 に出したい意向を毛利家に持ち かけてきた。

毛利宗家の崩壊を危惧した隆景 は自ら秀吉に願い出て、隆景自 身も実子がいなかったことから、 羽柴秀俊を小早川家の養子にし てくれるよう頼んだ。

すでに隆景には、元就の九男・ 秀包が小早川家へ養子となって いたが、秀包には別家を立てさ せて、これに対応した。

これにより、羽柴秀俊は小早川 家へ養子として入り、小早川秀 秋と名乗った。

隆景は毛利宗家の危機を救った 義将として、後世まで忠義者の あるべき姿として賞賛された。

■秀吉お気に入りの将として、秀吉 からその武功をたたえられ、伊 予、後に筑前と所領を与えられ たが、隆景は秀吉から直接、拝 領することなく、一度、毛利輝元 を通してから拝領する形を取り、 あくまでも毛利家の属将である ことを忘れなかった。

主家に義を通す、その律儀な隆 景の姿勢に秀吉はますます感嘆 したという。

秀吉のよき相談役としても活躍 した隆景は、五大老の一人に列 し、天下泰平の番人としての役 割を見事果たしていった。

毛利家の栄華と天下泰平という 二大慶事に夢見心地の晩年を 過ごした、隆景は1597年、病没 した。
享年65歳。



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