毛利 輝元

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毛利 輝元
もうり てるもと
1553-1625
享年73歳。

名称:幸松丸、少輔太郎、右衛門督、 右馬頭、侍従、参議、 権中納言、従三位、幻庵宗瑞

居城:安芸吉田郡山城→安芸広島城 →長門萩城

■1553年、毛利隆元の長男として 誕生。

■1563年、輝元10歳の時、父・隆元 が急死したため、毛利家家督を 臨時で就く。

■輝元15歳にして正式に毛利家家 督を継ぎ、尼子家の本拠・月山 富田城攻めに初陣する。

■生まれながらの毛利家太守として 苦労知らずに育ったため、元就 から知力と胆力が足りないと嘆息 せしめた。

■尼子家掃討を完了した元就は、毛 利家磐石が成ったとして、いよい よ隠居を決意すると輝元は、すぐ さま書状にて父・隆元を生涯補 佐しておきながら、孫の自分は 見捨てるのかと父と同じように 元就に文句を宛て、父・隆元とと もに元就を生涯隠居の身にさせ なかった。

■元就の作り上げた毛利両川によっ て、元就没後も吉川・小早川の 補佐を得た輝元は、織田軍の侵 攻にもよく対抗した。

外交手腕に長けた小早川隆景が 秀吉とうまく外交を推し進めて くれたおかげで、豊臣政権では 五大老の一人に列するなど常に 天下に覇を唱えられる位置を確 保した。

関ケ原の戦いにあたっては、石田 三成と安国寺恵瓊の口車にまん まと乗せられ、西軍総大将の地位 に就いてしまう。

徳川家康と戦う気も起きないまま 、大坂城に入り、豊臣秀頼の後見 役と称して、踏みとどまった。

毛利軍は実戦には不参加であり ながら、仮にも西軍の総大将を 務めたことは重責であるとして、 改易処分となるが家康に内応し、 東軍勝利の一因を作った吉川 広家の決死の嘆願により、その 罪を軽減され、減封処分となり、 周防・長門の二国所有となる。

元就の遺言、天下の覇権を競うべ からずを守らなかった輝元は、元 就が築き上げた領土を大半失うと いう末路をたどる。

■1604年、遅くに出来た長男・秀就 に家督を譲った輝元は安穏とした 隠居生活を送る。

■1625年、結局、輝元は天下に覇を 唱えることなく没した。
享年73歳。



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