北条 氏規

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北条 氏規
ほうじょう うじのり
1545-1600
享年56歳。

名称:助五郎、左馬守、美濃守

居城:伊豆韮山城→相模三崎城→ 上野館林城

■北条氏康の四男。
上に氏政・氏照・氏邦と兄がいる。 母は氏康の正室(今川氏親の娘)。

■幼少の頃、北条氏と今川氏との同盟 の証として駿河国に人質として赴く。
この時、同じく人質として三河の地 より来ていた松平竹千代(後の徳川 家康)と出会ったという。

■その後、北条家に戻った氏規は、三崎 城主となり、次いで伊豆韮山城主と なる。

氏規は後北条家発祥の地である伊豆 国守備という大役を務めた。

武田信玄の二度に渡る伊豆侵攻の 際に武田勢の猛攻を凌いだ。

■武田家滅亡後、織田領となった甲州 の地であったが、織田信長が没すと 甲州の地は統治者がいなくなる事態と なり、徳川、北条の両氏の争奪戦の 場となる。

徳川、北条の両氏の和議交渉が始ま ると徳川家康と旧知の氏規が外交に あたり、見事和議を成立させている。

■伊豆の地が同盟により安泰となると 氏規は上野館林城の守備を任された。

1588年、兄・氏政の名代として大坂に 上洛した氏規は、豊臣秀吉の権勢の ほどを知り、ア然とする。

秀吉に謁見した氏規は、公家装束を 着込んだ秀吉ら諸将に驚く。

関東の片田舎から出てきた田舎侍と してあしらわれた氏規は、豊臣家と 北条家の力量の差を思い知らされた。

関東の地に立ち戻った氏規は、必死で 豊臣家への臣従を進言したが容れら れず、かえって氏規の忠義心を疑われ る結果を招いた。

■1590年、小田原の役が勃発すると氏規 は伊豆韮山城を死守したが、豊臣方の 徳川家康の降伏勧告により開城。

北条氏滅亡後、氏規は氏直に従い高 野山に入ったが、その後、秀吉に召さ れ、河内の地に2000石を拝領した。

1594年には河内国丹南郡を新たに拝 領して6800石を有した。
1600年、氏規は57歳にて没した。
その子孫は河内狭山藩となり、江戸時 代を生き抜くことになる。



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