北条 氏繁

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北条 氏繁
ほうじょう うじしげ
1536-1578
享年43歳。

名称:善九郎、左衛門大夫、常陸介、康成

居城:相模玉縄城→武蔵岩槻城→下総飯沼城

■後北条家の中興に活躍した北条綱成の子。
元服にあたり、康成と名乗ったが、後に改名 し、北条一門の通字となっている氏を頂き、 北条氏繁と名乗った。

父・綱成とともに常陸、下野方面に出撃し、 綱成のよき補佐官として活躍した。

■1562年、越後の上杉謙信が北条家の本拠地・ 小田原城に進撃してくると、氏繁は下総方面 の抑えとして有吉城に入り、氏康の命を受け、 玉縄城代も勤めた。

同時に氏繁は鶴岡八幡宮、円覚寺など鎌倉 一帯の守備責任者に就いた。

■下総方面の抑えとともに侵略の中心的な役目 を負った氏繁は、玉縄城主とともに下総飯沼 城主を務めるなど北条氏の軍略上で重要な 駒として活躍した。

■1571年に氏康が没すると主君・氏政にますます 頼られる存在となった氏繁は、1567年の三船 山合戦で岩槻城主・太田氏資が討死した後の武蔵岩槻城主を務め、その旧領統治に尽力した。

その後も北条氏の重要な軍略の中核を担い、1577年に下総飯沼城に入り、修築工事の指揮を取り、関東制覇の最終段階となる常陸の雄・佐竹氏との決戦に備えた。

1578年、常陸方面への総攻撃を控え、多忙な日々を送っていた氏繁は、長年の多忙を極めた生活のためか病に倒れ、下総飯沼城にて回復する事無く没した。
享年43歳。

北条氏の関東制覇へ向けた軍略上、重要な駒として奮闘していた氏繁の急死は、北条家にとって少なからず、大きな損失であったといえる。



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