山本 勘助

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山本 勘助
やまもと かんすけ
1500-1561
享年62歳。

名称:源助貞幸、晴幸、道鬼

■今川家家臣・山本彈正貞久の四 男として誕生。
三河牛窪の大名の養子になり、 大林勘助晴幸と改名する。

■1520年頃、養家の大林家を脱し 、入道し、道鬼と号して、諸国を 流浪する。

勘助は諸国の事情に通じ、文武 百般に通ず者といわれた。

■駿河の雄・今川家に寄宿してい た折、武田信虎が甲斐から追放 され駿河に送迎されてくると今 川義元の密使として甲斐に赴き 、義元の書状を信玄に差し出した。

この時、逸材と見抜いた武田信玄 は勘助を足軽大将として召し抱え たという。

諸国事情に通じた上、軍略の奇才 を発揮し、若き信玄の軍師として 活躍した。

■武田家屈指の軍師として活躍する 一方、勘助は高遠、小諸、海津な ど数々の城を縄張り(設計)し、築 城の名手としても腕をならした。

■山本勘助の人物像は、身の丈は低 く、肌は色黒く、容貌魁偉にして左 眼は失明しており、全身に刀傷を 持ち、右足は不自由な上に手の 指も満足に動かせなかったとある。

そんな容姿をしていた勘助であっ たが、一度、軍略や国政の議場で は、一同をうならせるほど能弁で あり、説得力のある智勇振りを見 せたという。

■1561年9月、上杉軍が信濃に四度 侵攻してくると上杉軍との決着を つけるべく信玄は大軍を率いて 信濃に入る。

もちろん、信玄の軍師として勘助も 従軍した。決戦に臨んだ武田軍だ ったが、妻女山に軍を布陣させた まままったく動く気配を見せない上 杉軍のためにこう着状態となると 勘助は、武田軍軍師として戦況の 打開策としてきつつき戦法を編み 出し、信玄に提言。武田軍の挟み 撃ち作戦が決行された。

しかし、武田軍のこの動きを察知 した上杉謙信は、好敵手・信玄の 首級を上げる決戦を挑むべく、密 かに妻女山を降り、武田本隊を総 攻撃した。

勘助は自分が提言した戦術が失敗 に終ったことを知り、上杉軍に無謀 にも突撃し、討死した。
享年62歳。



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