内藤 昌豊

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内藤 昌豊
ないとう まさとよ
?-1575

名称:工藤源左衛門尉、修理亮、修理正

居城:上野箕輪城

■武田信虎に仕えた工藤下総守虎豊の 次男として誕生。工藤源左衛門と 称した。

■父・虎豊が暴虐に走る主君・信虎を諫 めるとかえって不興をかい、信虎に 惨殺されるという事件が起こる。
源左衛門は、兄とともに武田家を出奔 関東を流浪する日々を送る。

■1532年、信玄が甲斐豪族とともに信虎 を甲斐から追放すると源左衛門は、 武田家に召喚され侍大将になる。

■1561年、第四回川中島合戦で信玄の 片腕で武田家副将であった武田信繁 が討死すると、源左衛門は信繁の 後継となり、信玄の片腕としてその後 、活躍してゆく。

■1566年、信玄が西上野へ侵攻し、豪将 ・長野業正から箕輪城を奪取。
源左衛門を上野箕輪城主に任じ、 猛将の長野業正の抑えとした。

■1568年、源左衛門はこれまでの軍功を 賞されて、甲斐の名族・内藤家を継ぎ 、内藤修理亮昌豊と名乗る。

■内藤昌豊の人物像は、武人でありなが ら温厚であり、目先にこだわらず、 物事全体を見て行動する思慮深さを 持っていた。

若い頃甲斐を脱し、関東を流浪した経 験を持つ昌豊は、関東事情に多少、 精通していたことから北条氏との二度 目の同盟締結の際に交渉の全権を 託され、北条氏政と交渉に当たるなど 信玄からの信任も厚かった。

■昌豊は、山県昌景、馬場信春、高坂 昌信とともに信玄四名臣に数えられ 「人衆を扱うことでは武田家無双の 侍大将」と賞賛されている。

■信玄没後、昌豊は新主君・勝頼の寵臣 ・長坂長閑、跡部勝資らと対立。
1574年、犬猿の仲の両者が軍議に 参加した時、意見の食い違いから 危うく斬り合いになるという一幕もあ った。

■1575年、長篠合戦では、開戦前に伊那 谷へ織田・徳川両軍を引き寄せ、横合 いから迎撃するという奇襲戦法を提案 するが勝頼に正面突撃を拒むは年老 いて臆病風に吹かれたせいかとけな され、憤激。

死を省みず織田軍滝川一益隊の陣営 に突撃。
武田家臣団屈指の勇壮を将兵に見せ 付けつつ、織田鉄砲隊の弾幕に散っ た。



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