飯富 虎昌

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飯富 虎昌
おぶ とらまさ
1518-1565
享年48歳。

名称:兵部少輔

居城:信濃内山城→信濃小諸城

■源満政の後裔が甲斐源氏逸見 氏の猶子となって甲斐河内領 飯富郷に土着したのが飯富家 の始まりといわれる。

■代々、飯富家は武田家の族臣 として仕えた。
虎昌も飯富家当主として武田 信虎・信玄に仕え、侍大将とし て活躍。
後世、”甲山の猛虎”という異 名をとった。

■1536年、虎昌18歳の時、関東 の雄北条氏綱が駿河に侵攻す ると信虎は今川救援軍を出した。

武田・北条両軍は富士郡鷹山 の原野で対戦し、若武者・虎昌 はよく奮戦し、北条軍を敗走さ せる軍功を立てた。

■1538年、虎昌20歳の時、甲斐武 田の勢力が信濃に拡大すること を恐れた信濃の雄・村上義清と諏訪頼 重は、連合して甲斐に侵攻。

この際、虎昌は800騎を率いて 村上軍を迎撃。首級97を挙げ る大活躍を見せ、村上軍を敗走 させた。

虎昌はこの猛勇ぶりで”甲斐に 虎あり”として村上軍から恐れ られた。

■信虎の暴虐ぶりに離心した武田 家臣の一人として虎昌は、同僚 の板垣信方、甘利虎泰らと計り 、信虎の長男・晴信を擁立。

信虎を甲斐追放に成功する。 この時、虎昌は信虎の駿河送迎 を務めた。

■信玄の信濃侵攻戦では、常に先 鋒を務め、猛虎ぶりを発揮し、 信濃豪族をその武勇で震え上 がらせた。

■信玄の信濃制圧に王手をかけた 時期、村上義清ら信濃豪族から の救援要請を受けた上杉謙信の 軍8000が信濃に進軍。

南佐久の居城・内山城に上杉軍 が攻め寄せてきた。
これを見た虎昌は篭城せずに80 0の手勢を率いて野戦を展開し、 見事これを打ち破る猛撃を見せ つけた。

■1561年、第四回川中島合戦では 、妻女山攻撃の別働隊主力とし て軍勢を率い、危機に瀕する武 田本隊を救出する武勇伝を演じた。

■虎昌の武勇は武田家臣団きって のものであり、信玄の信任も絶大 であり、武田家後継者・武田義信 の傅役を任された。

■しかし、 戦国の習いとして謀略を 駆使する父・信玄と違い信義を 重んじる義信との間では確執が 日増しに激化し、傅役を務める 虎昌は主君・信玄と義信の板ば さみにあい苦境に立たされるこ とと成る。

■1565年、今川氏出の妻を持つ義 信は、父・信玄の駿河今川攻め を断行することを信義に反するとして謀反を 企てる。
虎昌はそれに荷担するも企てはあえなく発覚。信玄の知 るところとなり、義信、虎昌は失脚。

義信は幽閉となり、義信の傅役だ った虎昌は責任を負い、自決した。 享年48歳。

■虎昌には、実弟・孫四郎がいたが、 飯富家を継ぐことを許されず、名 族・山県家を継ぎ、山県昌景とし て活躍することとなる。

虎昌を最後として名門・飯富家は 断絶することとなる。

虎昌は単に猛将というだけでな く、天下無敵とうたわれた武田の 赤備えを組織した創立者でもあり 、武田家組織の強化に深く携わ った軍師でもあった。

後に武田の赤備えの優れた軍組 織を認めた徳川家康の手で再編 され、井伊直政が率いる井伊の 赤備えとして伝承されていった。



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