徳川 信康

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徳川 信康
とくがわ のぶやす
1559-1579
享年21歳。

名称:竹千代、岡崎次郎三郎信康

居城:三河岡崎城

■家康の長男として誕生。 結城秀康、徳川秀忠の異母兄。 母は今川氏一族・関口刑部少輔 親永の娘・築山殿。

■信康は母・築山殿とともに駿府に いたが、1560年、桶狭間合戦で 義元が戦死すると家康はまもな く今川氏から独立。
今川氏の人質として信康は窮地 に立つ。

■1562年、捕虜交換により、信康と 築山殿は三河岡崎へ戻ることに なる。
家康の後継者として酒井忠次、 大久保忠世らに補佐されて帝 王学を学ぶ。

■1567年、信康は織田信長の娘・ 徳姫を娶り、織田・徳川同盟の より一層の結束に貢献した。

■1570年、父・家康が居城を岡崎 城から浜松城へ移ると信康は そのまま岡崎に残り、岡崎城主 となる。

それと同時に織田信長から偏諱 を与えられ元服を果たし、信康と 名乗る。

■1575年5月、信康は武田勝頼の 駿府進軍に際し、設楽の戦いで 活躍。
尾山城攻めに参軍した信康は、 戦況が不利のため退却する際 に自ら殿軍を志願し、見事大役 を果たした。
この戦いで信康は武名を挙げた。

■信康の名将振りは、遠く信長の耳 にも届き、信長の嫡子・信忠が平 凡であったことから信長から大い に嫉妬されたといわれる。

家康とその妻・築山殿とが不和に 陥ると、不評が飛び交うようになる。
築山殿が武田勝頼と内応し、信康 もそれに同調して武田氏と内応す るようになっているとのこと。

また、信康は神経質なところがあ り、小者の失態を許さず、斬首す ることもしばしばあったことから織 田信長からあらぬ嫌疑をかけられ るようになる。

信康の嫌疑を晴らそうと、家康は、 信康の側近・酒井忠次を信長の 下へ送り、弁明しようとしたが、信 長の詰問に正直に応える忠次に は、信康の嫌疑を晴らす弁舌の才 がなかったと述べるしかない。

■1579年、ついに信長から信康・築山 殿の幽閉処置を促す書状が家康の 元へ届くと家康は、これに背くことが できず、苦渋の決断を下す。

家康は、信康を見張る人数を減らし 、信康が徳川家を出奔し、信長の怒 りがさめるまで下野してくれることを 願うくらいしか手立てを打てなかった。

家康のこの処置にも、信康は察する ことができず、ただ幽閉の身を保ち、 出奔することはなかった。

築山殿が家臣の手で斬首されると 信康も失望し、切腹して果てた。 享年21歳。



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