井伊 直政

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井伊 直政
いい なおまさ
1561-1602
享年42歳。

名称:虎松、万千代、兵部少輔、 従五位下侍従

居城:上野箕輪城→上野高崎城 →近江佐和山城

■遠江井伊谷の城主・井伊直親の子。 母は奥山因幡守親朝の娘。

■今川家家臣だった父・直親は、 今川家当主・今川氏真より 謀反の嫌疑をかけられ、謀殺 された。

2歳の万千代は父の友人・新 野親規の助命嘆願により命を 救われ、親規の養子となる。

しかし、1568年、親規が戦死し 、再び苦境に立たされるが、母 の再婚先である松下清景に救 われ、乳母とともに三河国鳳来 寺に身を寄せた。

■1575年、松下城下で鷹狩りをし ていた家康に見出され旧姓井 伊に復帰し、遠江井伊谷の旧 領を安堵された。

■1576年、直政は武田軍との戦 い遠江芝原合戦で、初陣を果 たし、その後、徳川軍の有力な 先鋒となり、数々の軍功を挙げ ていくこととなる。

■1582年、それまでの目覚しい軍 功を称されて4万石の大名に出 世し、徳川家重臣の一人となる。
それと同時に武田家滅亡により 出た、武田遺臣117名を与えら れ、武田軍組織を取り入れた” 井伊の赤備え”を作り出した。

■1584年、小牧・長久手の戦いで は、池田恒興の軍を撃破し、” 井伊の赤備え”の強さを天下 に知らしめた。

■実戦に巧みな武功派として活躍 した直政であったが、実務でも 有能さを発揮し、酒井忠次・本 多忠勝・榊原康政らとともに” 徳川四天王”として名を馳せた。

外交面でも能力を発揮した直 政は、若干22歳で北条氏勝と の講和会議に臨んでいる。
家康の覇業を助けた功臣とし て、”開国の元勲”と称せられた。

■1586年、秀吉が家康懐柔策の 一環として実母・大政所を岡崎 に人質として送っていたが、家 康が秀吉に臣従したことから岡 崎から大坂へ護送されることと なった。

この護送の大役を直政が勤め、 大坂に上った直政に対し、秀吉 は直政の元同僚・石川数正を引 き合わせた。

しかし、徳川家から豊臣家へ寝 返った数正に対し、直政は口も きかぬという剛直な面を見せた という。

■1588年、直政は家康とともに京 へ上り、聚楽弟行幸の際に秀 吉より従五位下侍従に奏任さ れた。

■1590年、小田原攻め後、直政 は家康関東入りに際して、上 野国12万石箕輪城主となり、 文字通り徳川家主力の一翼 を担う勢力を有した。

■1600年、関ケ原の戦いでは、 東軍・西軍の両軍が対峙した 際に先陣をきろうとする東軍 の福島正則を出し抜き、家康 の四男・松平忠吉とともに先 陣をきる鉄砲の火蓋をきり、 先陣の名誉を徳川一門と井 伊家が得た。

戦いの終盤に西軍の島津軍 が退却に窮して、前方へ活路 を見出そうとした。

家康の本陣横を通り抜け、退 却する島津軍を松平忠吉隊と 直政隊が追撃したが、島津軍 の鉄砲隊の銃撃を浴び、忠吉 、直政は鉄砲傷を負うことと なった。

■1602年、直政は関ケ原の戦い で負った鉄砲傷が元で没した。 享年42歳。
家康は文武両道の勇将の死を ひどく悲しんだという。



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