榊原 康政

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榊原 康政
さかきばら やすまさ
1548-1606
享年59歳。

名称:亀丸、小平太

居城:上野館林城

■榊原七郎右衛門の三男として三 河上野にて誕生。母は道家氏 の娘。

■三河上野城主・酒井忠尚に仕 え、主君・忠尚が松平広忠と対立。
松平軍としばしば抗戦する。

■1561年、康政13歳の時、岡崎 に帰城していた家康に見出さ れ家康の近習として仕える。
家康の康の一字を賜り、康政 と名乗る。

■1563年、康政は三河一向一揆 との鎮圧戦である上野合戦に 参軍し、初陣を果たす。

■徳川軍の三河各地の転戦に参 軍した康政は数々の軍功を立 て、武勇の誉れを授かる。

■1570年、姉川合戦では、わずか な手勢を率いて参軍し、苦戦一 色の織田・徳川連合軍の中、戦 況を一変させる作戦を見出し、 防戦する朝倉軍の横合いを攻 め、これを切り崩すことに成功。 織田・徳川軍の勝因を作る大 戦功を上げた。

■1575年、長篠合戦に参軍した 康政は、真田信綱の部隊と大 激戦となり、康政直属の家臣 を多く討死するという痛手を負 いつつも敵を敗走させ、首級 10を挙げた。

■1584年、小牧・長久手の戦いで は、地形に明るい康政は三好 秀次を撃破し、敗走軍を追撃。
敵を深追いし過ぎ、軍指揮の 名手・堀秀政の軍に襲われ、 逆に敗走するという失態を犯 した。

■1590年、家康の関東入り後、 康政は上野館林城と上野下 野両国内に18万石を領し、関 東要所の抑えとして置かれた。

■1592年、家康の三男・徳川秀忠 の付人となり、その縁で、康政 の娘は秀忠の養女となっている。

■1600年、関ケ原合戦の際、康政 は秀忠とともに東山道沿いに 行軍し、途中東軍から西軍に 寝返った信濃上田城の真田昌 幸を攻めるが、昌幸の権謀術 数にはまり、足止めをくわされ 、関ケ原合戦に遅参するという 失態を犯す。

秀忠が家康から怒りを受ける と康政は間に入って陳謝し、場 をなだめることをして、後に秀 忠からその恩義を感謝する書 状を受けている。

■晩年、康政は家康から水戸城 を与える恩賞を受けたがこれ を謝絶し、館林で養生するも 再起することなく、没した。 享年59歳。
康政の死を知った秀忠はひど く悲しんだといわれる。



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