細川 忠興

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細川 忠興
ほそかわ ただおき
1563-1645
享年83歳。

名称:与一郎、三斎、宗立

居城:丹後宮津城→豊前中津城→ 豊前小倉城→肥後八代城

■細川藤孝の子。
畿内を制覇した織田信長に父とともに 仕え、1577年に紀伊の雑賀一揆衆の 討伐で初陣を果たす。

■若くして俊才の誉れ高く、織田信長に気 に入られ、信長の斡旋で明智光秀の三 女・玉(洗礼名・ガラシャ)と結婚。

これにより、織田家と明智家、細川家 の三家は親戚関係となる。

忠興は父・藤孝とともに明智光秀に従 い、丹波、丹後の攻略戦を敢行。
丹後平定後は、父とともに丹後宮津城 主となり、12万石を拝領した。

■1582年、本能寺の変後、光秀より国政 統治に参加してくれるよう忠興の下に 使者が届くが忠興はこの誘いに乗ら ず。

忠興は父とともに入道し、織田家への 変わらぬ忠誠心を内外に現した。 中国大返しを果たし、見事、主君・信長 の仇を討った羽柴秀吉に忠興は組す ることとなる。

■1600年、関ヶ原の戦いでは、東軍に属 した忠興ではあったが、熱愛する妻・ガ ラシャが西軍の人質に成ることを嫌っ て、自刃して果ててしまうという事件が 起こる。

忠興はこの悲しみを堪えて、東軍の諸 将へ動揺させぬようにして毅然な態度 で西軍との戦いに向った。

この身を裂くような悲しみを堪えての東 軍への忠誠心を見せた忠興に対し、徳 川家康は酷く感服して、戦後、忠興に 豊前小倉36万石を与え、その忠誠心 に報いた。

大坂の役後、さらに石高を加増され、 嫡子・忠利は肥後熊本にて54万石を拝 領し、大身を成した。

忠興の晩年は、三斎と号して利休七哲 の一人として、その名に恥じぬ風流人 として活躍。

茶道、歌道、絵画などに精進する芸術 三昧をして日々を楽しんだ。



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