小西 行長

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小西 行長
こにし ゆきなが
1558?-1600
享年43?歳。

名称:弥九郎、摂津守、 洗礼名・アグスチノ

居城:肥後宇土城

■堺の宿老で薬種、貿易商人の小西 隆佐(立佐-りゅうさ)の二男。

養子とも伝えられる。
備前岡山城主の宇喜多直家の下へ 商い人として出入りした。

その後、織田家の羽柴秀吉が司令官 を勤める中国攻めが敢行されると宇喜 多家は、織田家に降伏するために商人 の行長を用いた。

会見した秀吉は、行長の才を高く評価 し、行長も秀吉の麾下になることを望 み、その後は秀吉軍団と行動をともに する。

その後、功績を認められて、播磨の室 津、小豆島に所領を拝領した。

■1584年には、キリシタン大名・高山右近 の薦めでキリシタンとなり、洗礼名・ア グスチノを受け、熱心な信者となる。

■秀吉軍団の中では、船奉行を務め、 1585年の紀伊雑賀攻めでは水軍を率 いて軍功を挙げた。

その後も秀吉の天下統一戦に参加し、 各地で数多くの戦功を挙げた。宣教師 のルイス・フロイスは、行長を”海の司 令官”と表記するなど、豊臣政権内で 行長は欠くことのできない存在へと展 望している。

■1587年の九州平定戦では、22万の大 軍を擁した豊臣軍の大量の兵糧を海 路輸送する大役を果たす。

これらの勲功により、行長は加藤清正 とともに肥後を統治することとなり、行 長は肥後半国14万石を領して、宇土城 に入った。

■文禄の役では、豊臣軍の先鋒を勤め、 加藤清正と戦果を競った。
慶長の役では、秀吉に無断で泥沼化 した戦争の収拾を図り、明国との講和 を進めたが交渉は不調に終る。

1600年、関ヶ原の戦いでは、加藤清正 など武断派らが東軍につくことを予見 して、三成の誘いに応じて西軍に属 した。

関ヶ原決戦ではよく奮戦したが西軍の 総崩れに際して、自殺を禁ずるキリスト 教の教えを守り、自害をせずに伊吹山 に逃れた。

その後、徳川方の捜索により捕まり、 京都六条河原で斬首された。



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