藤堂 高虎

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藤堂 高虎
とうどう たかとら
1556-1630
享年75歳。

名称:与吉、与右衛門、佐渡守、和泉守

居城:伊予板島城→伊予今治城→ 伊勢安濃津城

■藤堂高虎は、藤堂源助虎高の二男と して、近江犬上郡藤堂村に生まれた。

高虎は一介の土豪に過ぎず、高虎自 身の凄まじい出世劇によって、今日語 り継がれる名将の域に達した波乱万 丈の武将である。

浅井長政に仕えたのを皮切りに北近 江の土豪・阿閉氏、磯野氏と次々と 主君を代え、次いで織田信長の甥で ある津田信澄、羽柴秀吉へと仕えた。

最後は徳川家康へと豊臣家から鞍替 えを成し、主家を転々としながら常に 出世するという出世の猛者であった。

■浅井氏、阿閉氏、磯野氏、津田氏と仕えた主 家は皆、鳴かず飛ばずの家格ばかりであっ たが、ようやく五度目の正直とばかりに羽柴 秀長に仕えてからはようやく出世への糸口を 掴んだ。

急成長を続ける羽柴家にとっては、高虎のよ うな天性の雄才を持つ人物が必要であり、高 虎の活躍はすぐに出世へとつながっていっ た。

1576年に羽柴秀長に仕えた時点で、すでに 高虎はその築城の技術などがかわれて 3300石を拝領し、大名を狙える圏内に入っ た。

賤ヶ岳の戦いでは、目覚しい武功を立てて、 秀吉の目にとまり、秀吉から直接5000石を拝 領する出世劇を得た。

その後は、羽柴秀長の中堅の将として活躍 し、秀長の大和移封にともない1万石を加増 され、次いで九州征伐への従軍でさらなる軍 功を立てた高虎は、1万石の加増を得て、中 堅大名を狙える射程圏を得た。

特に高虎の目覚しい出世は単に武功による ものだけでなく、外交という人事面や築城とい った技能面でその才能を開花させ、巨大化し た豊臣政権にとっては欠くことのできない人 物という位置付けが成されている点が特徴で ある。

武功というよりも建設大臣・政調幹事長という 天下泰平になった時代に必要不可欠な政治 家という一面を高虎は持っていたのである。

■天下泰平の世に必要となった微調整が必要な 難しい政局によく応えたのが高虎であり、豊 臣家ではその点を重々承知していたらしく、 高虎を従五位下佐渡守に叙任して政治家と して諸大名との調整役という潤滑油のような 活躍を期待した。

その間に高虎は怪盗日本左衛門を捕らえる など治安維持という方面で活躍を見せた。

■1591年、主君・豊臣秀長が病没すると高虎 は、まだ若輩の豊臣秀保を盛り立てて、朝鮮 の役に出陣した。

文禄の役では、高虎は水軍を指揮して、朝鮮 水軍と戦ったが連戦連敗という散々な敗北を 喫した。

そんな失態を犯した中、主君・豊臣秀保が 16歳という若さで没すると行き場を失った高 虎は、敗将の恥辱と主家の倒壊を嘆いて、剃 髪して高野山に入ってしまう。

だが、高虎の才能を惜しんだ秀吉は、高虎を 召し出し、伊予板島(宇和島)7万石を与え、 政界復帰をさせた。

■1598年、秀吉が没すると高虎は、いち早く次 の天下人は徳川家康に成ると予見して、家康 に接近した。

関ヶ原の戦いでは高虎は東軍につき、軍功 を挙げ、戦後は伊予半国を拝領し20万石の 中堅大名へとのし上がった。

高虎は今治城を居城と定め、外様大名であり ながら、徳川家康に信任され、その後の政局 で活躍してゆく。

■その後、家康の信任を得た、高虎は1608年に 大坂城の豊臣秀頼の備えとして伊賀一国と 伊勢安濃津城への移封となり、22万900余石 となった。

以後、藤堂家は外様大名でありながら、譜代 大名の井伊家と並んで徳川家の先鋒を勤め る名誉ある家柄となる。

大坂夏の陣では、高虎は八尾で大坂方の長 宗我部盛親と交戦した。

戦乱の火種がなくなると高虎は、武人として ではなく建設大臣として活躍する。

築城の名手だった高虎は、配下のものにも数 多くの築城知識人が結集しており、二条城築 城や江戸城修築などにその手腕を振るった。

1630年、築城の名手という技能面で出世術 を見出した名将は一代で築いた藤堂家の栄 華を見つつ没した。
享年75歳。



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