浅野 長政

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浅野 長政
あさの ながまさ
1547-1611
享年65歳。

名称:長吉(ながよし)、弥平衛尉、 従五位下彈正少弼

居城:近江大津城→近江坂本城→ 若狭小浜城→甲斐府中城

■尾張国の武将・安井重継の長男。 母の兄である浅野長勝に跡取りがな かったことから長勝の養女・ややの婿 養子となることで浅野家へ入った。

妻・ややの姉がねねで羽柴秀吉の正 室であったことからその縁で長政は 秀吉麾下の武将として仕えた。

秀吉が出世街道を駆け上がっていく に連れ、長政も異例の出世を遂げて いくこととなる。

■浅野家はもともと織田家の弓足軽組 頭を勤める家柄で百姓上がりの木下 秀吉よりも家格はずっと上であったが 、秀吉の見事な出世劇により、浅野家 は自然と木下秀吉の麾下に組み込ま れていった。

■長政の初陣は、近江浅井攻めの合戦 で、それ以後、長政は秀吉麾下の武 将として各地を転戦した。

当時、秀吉軍団は”逃げ上手の秀吉 軍”と馬鹿にされていたほど武名の無 い軍勢であったが、それでも智略を活 かした功績で秀吉は浅井攻め一番の 功労を織田信長よりいただき、近江長 浜12万石を領した。

1573年、秀吉の中堅大名への昇進と ともに長政も120石を秀吉より拝領し 、近江小谷城主に就いた。

■その後、秀吉側近の副将たるべき存 在として常に秀吉軍略に加わり、秀 吉軍団の一翼を担った。

1582年に起きた本能寺の変の直後 には、長政は播磨、山城などに1万 石を領する小大名にまで昇進を果た し、秀吉軍団にとっては無くては成ら ない存在となっていた。

秀吉の天下統一への軍略が本格化 すると、長政はますますもって、秀吉 に重用され、京奉行に任命され、信 長亡き後、混乱する京都の治安維持 に当たった。

■1583年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで長年 の仇敵・柴田勝家を葬り去ると、長政 は近江甲賀、栗太の二郡を加増され 2万石を領し、近江坂本城と近江大 津城を預けられた。

この長政への処置は、京都に近く商 業交通の要衝である重要拠点・近江 の地を長政に預ける任せることを意 味し、秀吉新政権にとっては最も重要 な生命線の死守役目を長政に任せた ことに匹敵する。

それだけ秀吉から絶大な信頼と武官 ・文官の両面にひいでた才覚を持って いた有能な武将として長政は見られて いたということになる。

武勲にはあまり縁の無い長政ではあっ たが、軍略上重要な拠点や政務統治と いった面で全面的に信頼が置ける武将 は、秀吉軍団でも長政が最も適任であ り、目立たない影の活躍に長政は徹した。

■1587年には、長政は若狭一国8万石を 与えられ、翌年1588年には従五位下 彈正少弼に奏されるなど順風満帆な 出世を豊臣政権内で実現した。

■1593年11月には、文禄の役の真っ最 中でありながら、秀吉の意向で長政は 名将の才気を持つとの高評を得ている 嫡子・幸長(よしなが)とともに甲斐一 国22万5000石への移封を告げられ 、甲斐府中城主に就いた。

この移封人事は、長政に奥州の諸大 名の統帥も兼ねている。伊達政宗、南 部信直など奥州の大大名たちが長政 の与力として組することとなり、豊臣政 権下で長政は奥州統制の重職を負っ たのである。

■1598年、秀吉が病床につくと、豊臣政 権の再構築が成され、長政は新たに豊 臣家五奉行の筆頭に就き、豊臣政権 の屋台骨の柱石を担う存在として改め て位置付けられた。

秀吉没後は、慶長の役で朝鮮半島へ 渡海している日本軍の撤兵処理などで 事務手腕を発揮し、石田三成とともに よくその重役を果たした。

しかし、その後石田三成とは関係が悪 化し、ついには長政は豊臣家を退転し て甲斐から武蔵へ逃れた。

そこで、長政はかねてから懇意のある 徳川家康と急速に結びつき、反石田三 成の一派を成した。

■1600年、関ヶ原の戦いが起こると、長政 は嫡子・幸長とともに東軍に組して西 軍を率いる石田三成と対立した。

長政自身は、中仙道を行軍した徳川秀 忠の軍勢に加わっていたため、直接は 合戦での功績を得られなかったが、子 の幸長は関ヶ原の戦場で軍功を挙げ、 戦後には幸長に紀州和歌山37万60 00石が与えられた。

長政に対しても隠居料として常陸真壁 、筑波に5万石と近江に5000石が与 えられるというつい先刻までは豊臣政 権にあった浅野家を徳川家は周囲を 驚かせるほどの厚遇を与えた。
■浅野家の磐石な安泰を見届けた長政 は1611年、江戸の隠居所にて没した。
享年65歳。



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