鍋島 直茂

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鍋島 直茂
なべしま なおしげ
1538-1618
享年81歳。

名称:彦法師、信安、信真、信生、信昌、 飛騨守、加賀守、法名日峯宗智

居城:筑前酒見城→肥前諫早城→ 肥前佐嘉城

■龍造寺家臣団の中で逸脱した才覚を見 せた鍋島清房の長男。

母は龍造寺家兼の子・家純の娘。 鍋島家は本来少弐氏一族の出自で ある。

1530年に中国地方の雄・大内氏の杉 興運と当時、少弐方であった龍造寺家 兼との間で、肥前国東、田手畷で合戦 となった。

この時、龍造寺軍が劣勢に陥ると赤熊 の顏を象った奇怪な脅し鎧の仮面をつ けた鍋島軍200人余が大内軍の陣に 突っ込むと鬼熊の猛者に腰が砕けた 大内軍は戦わずして敗走した。

龍造寺軍の危機を救った鍋島氏は以 後、龍家と入魂の仲となって行く。

■龍造寺一門が少弐家重臣・馬場頼周の 謀略によりことごとく斬り殺されると、鍋 島一族は、かろうじて生き残った龍造 寺家兼を助け、馬場頼周を討ち果たし 、水ヶ江龍造寺家の再興に貢献した。

直茂の父・清房の有能な采配により、 勢いを盛り返した龍造寺家は、鍋島家 と更なる縁戚関係を結び、結束を固くし ていった。

亡き龍造寺周家の妻・慶ァ尼(けいぎ んに)は、子の隆信にとって、右腕とな る人物を探していた。有能な鍋島清房 の長男・鍋島直茂が利発であったこと を知り、同じく妻に先立たれていた鍋島 清房の後妻となり、隆信と直茂を義兄 弟として、龍造寺家の栄華成就を託 した。

■この慶ァ尼の思惑は、すぐさま効を奏 した。

1570年、龍造寺氏の領土拡大が成る とそれに憤怒した大友氏が大軍を擁し て肥前制覇の合戦を起こしてきた。

肥前・筑前・筑後・肥後にいる国人衆も 大友方に味方し、龍造寺家は風前の 灯火となる。

肥前佐嘉城に篭城した龍造寺軍500 0人余に対し、大友親貞を総大将とす る大友軍は、六万余人と実に1:12の 大差がある攻城戦となった。

この龍家の危機を救ったのが鍋島直 茂であった。直茂は、手勢2000を率 いて大友軍の本陣があるであろう今山 を夜襲し、見事、混戦に乗じて、大友軍 の総大将・大友親貞を討ち取ったので ある。

この時も鍋島軍は脅し鎧に身を包み、 例の”赤熊(しゃぐま)”のおどし仮面を つけ、敵を大喝して恐れおののか せた。

親貞討ち取るの報を知った隆信は、全 軍に出撃命令を出し、佐嘉城を発した 龍造寺軍は佐嘉城を包囲する浮き足 立つ大友軍めがけて突進。

完全に統率を失った大友軍は、多大な 死傷者を出して本国豊後へ敗走した。 この今山の戦いで一躍、九州一も猛者 と賞賛された直茂を持つ、龍造寺氏に 対し、大友氏は肥前への侵攻を諦め、 和睦。

隆信は大友氏と和平を保ちつつ、肥前 全域に勢力拡大を図り、当時日本一を 誇った穀倉地帯である肥前の地を独占 した。

■その後、直茂は父・清房に取って代わっ て、龍造寺家中の筆頭を勤め、政務、 軍務の二面で活躍した。

その後、龍造寺家は、大友氏の衰退と ともにその領土を侵食して、五州二島 の巨大な勢力を張り、九州の覇者とな るべく軍略をめぐらした。

しかし、1584年島津軍との小競り合い から始まった沖田畷の戦いであっさり と龍家の総帥・隆信が敵に討ち取られ てしまうと、形勢は一挙に不利に転じ、 再び龍造寺家の存亡の危機が飛来 した。

直茂の必死の采配で島津軍の侵攻を 何とか防ぐと頃合を見て、島津氏に付 属することに成功。

直茂のすぐれた政局判断により、島津 氏の猛攻を回避し、龍家の安泰を 見た。

■その後、1587年に豊臣秀吉が九州平定 に乗り出すと直茂は、迷う事無く島津 氏と手を切り、豊臣氏に付属。

ここでも直茂の政局判断のよさで龍造 寺家の危機を凌いでいる。

この逸脱した活躍を見せる直茂を秀吉 は一度謁見しただけで英雄であると見 極め、秀吉に気に入られる。

一大名の家臣にしておくにはもったい ないとして秀吉は直茂に肥前諫早城と 領土を与え、龍造寺家より独立させ、 大名に取り立てている。

その後、龍造寺家当主である政家が凡 庸で病弱だったことから直茂に日本一 の穀倉地帯を任せるべきとの声が高ま り、直茂は龍造寺家の家督を継ぎ、佐 賀藩32万石の開祖となる。

後に鍋島家が龍造寺家を乗っ取ったこ とへの恨みが騒動を起こし、世に名高 い”化け猫騒動”が起こった。


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