龍造寺 政家

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龍造寺 政家
りゅうぞうじ まさいえ
1566-1607
享年42歳。

名称:鎮賢、久家、民部大輔、肥前守

居城:肥前佐嘉城

■龍造寺隆信の嫡男。
1579年、龍造寺家後継者として定め られる。

1580年父・隆信より龍造寺宗家である 村中龍造寺家の家督を譲られ、村中龍 造寺家二十代目当主となる。

■1580年、政家を総大将とする蒲池氏討 滅戦が開始される。

それまで龍造寺家の中核を成していた 柳川城主・蒲池鎮竝(かまちしげなみ) が反乱を起こし、これを鎮圧すべく、龍 造寺家は掃討作戦を展開。

政家はこの鎮圧戦を成功させ、次期龍 造寺家当主としての才覚を内外示 した。

その後、父・隆信に従軍し、筑後、肥後 への侵攻作戦に挑み各地を転戦した。

■1582年、筑後の雄・山門郡の田尻鑑種 が龍造寺氏から離反すると政家は軍 勢を率い、これを討つ活躍を見せた。

■1583年以降、南九州に勢力を張る島津 氏がついに北上侵攻戦を展開し肥後 へと進入してくると政家はこれを迎撃 するべく肥後に入国。

各地で島津軍と小競り合いを行い、玉 名郡南関にて島津軍の総大将・島津 義久と和議を結び、領域の策定を行い 協定を成した。

■1584年3月、島原半島にて島津・有馬 連合軍との決戦に挑んだ父・龍造寺隆 信は、5万8000もの大軍を率いなが らまさかの討死。

龍造寺軍も大混乱をきたし、勇将ぞろ いの龍造寺家家臣がことごとく討死し、 大敗を喫した。

政家は急きょ、動揺する家中の統率に 尽力し、重臣・鍋島直茂の協力を得て 、国政の建て直しにあたった。

■1587年、島津征伐に下向してきた豊臣 秀吉にいち早く帰属し、島津討滅戦の 先鋒を務めるなどの活躍を見せ、秀吉 より肥前七郡を拝領した。

その後、病身の悪化に伴い政家は、秀 吉の許しを得て、国政を重臣の鍋島直 茂に委ねた。

■1590年、政家は隠居し、家督を高房に 譲った。

これ以後、龍造寺家の統制は完全に 鍋島直茂が取り仕切り、朝鮮の役を通 じて、家中の家臣団の心は龍家から鍋 島家へと移った。

その結果、家中の者たちの願望と豊臣 氏や徳川氏などの外圧により、龍家の 肥前支配は成立しなくなり、鍋島家の 台頭は必至の状況となる。

1607年、龍家当主の高房が自殺を図 り、政家も急死したことにより、龍造寺 家の正統な血筋は断絶した。

これにより、肥前は自動的に鍋島家の 統治へと移ったのである。


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