龍造寺 信周

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龍造寺 信周
りゅうぞうじ のぶちか
1532?-1610?
享年79?歳

名称:新次郎、阿波守、左馬頭、豊後守

■龍造寺周家の二男。
龍造寺隆信の実弟である。

1556年に起きた今山合戦や肥前平定 戦に参軍し、各地で激戦を勝ち抜いて きた。

■1578年、日向にて九州分け目の激戦・ 耳川の戦いが勃発し、大友氏が島津 氏に大敗すると、これを契機とみた兄・ 隆信の軍略に従い、大友領の筑後、筑 前へ出陣。

反大友勢力と連合して侵攻し、龍造寺 氏の領土拡大戦の主軸となって活躍 した。

筑前では、立花道雪、高橋紹雲の抵抗 を受け、筑後の西南9郡の支配で和睦 した。

その後、豊前に矛先を変え、侵攻し、 宇都宮鎮房、長野鎮辰ら北豊前国人 衆と激戦し、これらを屈服させた。

信周は北豊前を平定し、大友氏の抑え としてにらみを利かせた。

■1584年、兄・隆信が九州の覇権をかけ て島津氏と争った沖田畷の戦いで討死 すると信周ら本国より出張っていた龍 造寺軍は本国へ退き、島津軍の攻撃 に備えた。

その後、龍造寺家は生存こそしたが、 鍋島直茂にその勢力を取って代わられ 、信周も鍋島家に従った。後に信周は 須古鍋島家を開き、その祖となった。


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