江里口 信常

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江里口 信常
えりぐち のぶつね
1543?-1584
享年42?歳

名称:藤兵衛

■江里口家は代々、千葉氏に仕えてきた 武官の家であったが、千葉氏が龍造寺 氏によって、滅亡すると、信常は、一時 流浪したが、後に龍造寺家に仕官し、 その武勇を高く評価されて、鍋島直茂 の直属の与力となる。

肥前平定戦では、無双の武勇を天下 に示し、信常が進軍するところ、阻む敵 なし。

信常は行く先々で数多の敵を斬り、戦 場では死体の山が築かれたという。

■1584年、沖田畷の戦いにて、主君・隆 信が島津軍の雑兵に討ち取られると、 信常は憤激し、しからば島津軍の総大 将の首も取ってやろうと意気込み、群 がる島津軍を蹴散らし、躍起になって 島津軍の総大将・島津家久を探しま わった。

阻む敵は一刀両断に処し、いかに猛者 といわれた薩摩隼人といえども信常の 前では子ども扱いにされた。

島津軍の死体の山を築きつつ、島津家 久の首級挙げに執念を燃やす信常を 島津軍は、二重三重に取り囲み、信常 めがけて一斉に斬りかかった。

さしもの信常も卑怯な挑みにはかなわ ず、ついに力尽き、壮絶な戦死を遂 げた。

この壮絶な斬り合いの模様を遠巻きに して見ていた島津家久は、”江里口信 常、剛の者なり”と肝を冷やしながら感 嘆したという。


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