山田 有信

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山田 有信
やまだ ありのぶ
1544-1609
享年66歳。

名称:信助、民部少輔、越前守

居城:日向高城

■島津氏の九州制覇戦で大いに活躍した 武勇誉れの高い薩摩隼人。

大友氏が5万の大軍を率いて日向攻 めを敢行してきた際、有信は手勢500 で高城に篭りこれを迎撃。

大友軍が攻略に難航している間に本 国より4万の大軍を率いた島津軍が日 向に到着。

九州分け目の耳川の戦いが勃発 する。

この戦いで、島津軍は耳川を渡って きた大友軍に隊列の乱れていることを 見抜き、これを猛襲。大友軍の混乱を 誘う。この混乱を見た有信は城を抜け 出、大友軍の側面を強襲。

大友軍は大混乱のうちに崩壊した。
この戦いで勝因を作った有信は抜群の 軍功を挙げたとして賞賛され、以後、 島津軍に有信ありとして九州の諸将か ら恐れられた。

■耳川の戦い以降も有信は、休む暇もな く九州各地を転戦して、活躍した。

肥後相良氏攻め、肥前の龍造寺氏と の間で起こった沖田畷の決戦などに 参軍し、常に島津軍の主軸として 活躍。

■1587年、豊臣秀吉が25万の大軍を率 いて、九州征討に出張ってくると有信 は、豊後にてこれを迎え討ち、豊臣軍 副大将・豊臣秀長と戦った。

しかし、兄・秀吉譲りの軍略を持つ秀長 は、手ごわく、さしもの有信も退路を断 たれ、進退窮まりついに降伏した。


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