佐久間 信盛

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佐久間 信盛
(さくま のぶもり)
?-1581


名称:半介、右衛門尉、夢斎定盛

居城:尾張山崎城→近江永原城 →三河刈屋城

■織田信長の父・信秀の頃から織田 家重臣として活躍。

■1560年、桶狭間合戦では、善照寺 砦の守将を務め、今川勢を引き付 け奮戦した。

■1567年、織田家重臣として信長の 息女・五徳姫が徳川家へ輿入れ する際に警護役として三河岡崎 城まで随行した。

■1570年、近江長光寺の戦いで、柴 田勝家とともに六角勢を破り、抜 群の軍功として信長から賞賛された。

■1572年、武田信玄の西上軍略が開 始されると信長の命で信盛は、徳 川方の援軍として派兵する。

三方ヶ原の戦いでは抗戦せずに戦 場を離脱する。

信盛の同僚・平手汎秀はこの戦い で奮戦し、戦死する。

■信盛は織田家の中核として活躍。 伊勢一向一揆攻め、越前一向一 揆攻めに参軍し、大役を果たして いる。

■三河の水野信元が罷免された後、 その領地である三河刈谷を加増 され、織田家重臣として栄華を極 める。

■1576年、織田家重臣として飛躍し ていた信盛にかつてない大任役 がめぐってくる。

本願寺攻めの総大将に任じられ たのである。

本願寺という強敵の攻略のため 、信盛には尾張、三河、大和、河 内、和泉、紀伊の各国軍団を動 員する権限が与えられ、織田家 最大の軍団長となる。

■本願寺攻め総大将という織田家 屈指の名誉ある大任を四年間 務めた信盛であったが、本願寺 攻略が不成功に終ったことで信 長から激しく叱責されることとな った。

■1580年8月、人生最高の栄華か ら一転、信盛は子の正勝ととも に信長から十九ヶ条に及ぶ折檻 状を突きつけられ、本願寺攻め 総大将の任を解かれ、高野山へ 追放処分を受ける。

信盛親子は、命令に従い剃髪し 高野山入りしたが、信長の憤激 は収まらず高野山も追われ、熊 野などをさまよったあげく、1581 年大和十津川で湯治中に没した といわれる。

■信盛追放という処分は、信盛だけ に留まらず、林通勝、安藤守就、 丹羽氏勝ら織田家譜代の重臣に 対し、職務怠慢などの叱責を買 い、追放処分となっている。

織田家の老僕にして不活躍の上 、大禄ばかりをむさぼる愚の骨頂 を全て取り払い新規構想を信長は 断行したのである。



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