滝川 一益

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滝川 一益
たきがわ かずます
1525-1586
享年62

名称:久助、彦右衛門、伊予守、左近将監、入庵、道栄

居城:尾張蟹江城→伊勢長島城→上野厩橋城

■近江国甲賀郡の土豪・伴資清の 子。滝川家は甲賀の伴氏の一 党であり、のちに甲賀五十三家 と呼ばれる忍者集団を形成した 忍びの家柄である。

■忍術に通じる一方で鉄砲の射撃 術の名手でもある一益は、信長 に仕官する。時期は桶狭間合 戦の前か、美濃攻めの前後 と言われている。 一益の智勇を見込んだ信長は 一益を直臣としている。

■一益が織田軍団で活躍し出す のは、伊勢北畠家攻めの頃 からである。 伊勢の員弁(いなべ)・桑名の 二郡を攻略する際に大河内城 を陥落させる抜群の軍功を立て いる。

■伊勢攻めで抜群の軍功を立てた 一益は、その後も伊勢攻めの 主軸として活躍。
勇猛果敢な攻撃で次々と勝利 を重ね織田の所領を広げてい った。

力攻めだけではなく、北畠家の 家臣団調略を実行し、内部崩 壊を誘った。
最後に信長の次男・信雄を北 畠具教の養子にする策略を成 功させ、完全に北伊勢八郡のう ち五郡を織田領とした。

■伊勢攻めでの数々の軍功により 一益は、織田家臣団の出世頭 の一人となった。
1574年の伊勢長島一向一揆 鎮圧にも軍功を立て、尾張蟹江 城に加えて、伊勢長島城も所有 することとなった。

■1575年、長篠の戦いにも参軍し 、活躍した一益は、柴田勝家、 佐久間信盛ら譜代の重臣と 並ぶ地位に就く。

■1578年、安土城で信長主催の 茶会が開かれ、織田家中で 重臣12人が選び出され茶会に 出席したが、その12人の中に 織田信忠、林秀貞、明智光秀、 丹羽長秀らとともに一益は名を 連ねた。

■数多くいる織田家臣団の中で 指折りの重臣に出世した一益 は、本願寺攻めに参軍し、 本願寺へ食糧援助を行う毛利 水軍と対峙する。 九鬼嘉隆とともに甲鉄船を指揮 し、無敵を誇る毛利水軍を撃破 した。

さらに勢いに乗った一益は、 中国路の拠点である神吉城、 摂津伊丹城攻撃にも参軍し、 軍功を立てる活躍を見せた。

■近畿各地での転戦では抜群の 働きを見せた一益は、甲斐武 田家攻めで織田信忠とともに主 力を率いて攻め込んだ。
武田攻めで先鋒の大役を務め た一益は、鬼騎馬として恐れら れる武田騎馬隊を相手に一歩 も退かない戦い振りを見せ、武 田攻め一番の軍功を立てた。
そのめざましい軍功の褒賞とし て”吉光の銘刀”と栗毛の名馬 、黄金などを信長から賜ってい る。

■負けなしの戦上手として東国に 名を売った一益は、織田軍の 東国攻め総大将としての大任 を任されることと成る。
その拠点として上野国と信濃 国の佐久・小県二郡を与えられ 関東管領として上野厩橋城を 居城とすることを命じられてい る。

■東国平定戦を任された一益は、 信長から東国支配のための 山東制法十五章という法度を 与えられる。
信長の期待に応えるべく一益 は、上野国人衆を味方につけ 越後に派兵するなど軍略を 始める。

この時期が一益にとって、絶頂 期であり、本能寺の変を境に 一益の武運も転落していくこと となる。

■本能寺の変の報を受けた一益 は、浮き足立つ兵士を率いて 京へ戻ろうとする。
この急変の動きを見た北条方 は、友好的な態度から一変、 大軍を率いて滝川軍を追撃 してきた。

滝川軍の十倍余という大軍で 攻め込んできた北条軍を見て、 戦意を失った滝川軍は、上野 神流河原で壊滅した。

■信濃路を通って漸く所領伊勢 長島城へ戻った一益は、秀吉 の天下を恐れ、織田信孝、柴田 勝家らとともに反秀吉の旗を掲 げた。

■1583年1月、秀吉は7万5000の 大軍を率いて伊勢に侵攻。 秀吉の大軍を見て、まともな 合戦ができない一益は、後方 の柴田勝家とともに挟み撃ち 作戦を頼みとしたが柴田勝家 が賤ヶ岳の一戦で敗退したた め孤立無援と成る。
織田信孝とともに戦うもあっさり と敗北し、やむなく降伏した。

■一益は剃髪して越前大野に蟄居 する。かつて数々の軍功を立て 織田家で秀吉、光秀らと出世 争いをおこなったほどの智勇の 将は、信長死後の時代の急変 革についていけず不遇のうちに 没することとなる。
享年62歳。



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