柴田 勝家

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柴田 勝家
しばた かついえ
(?-1583)
享年57?


名称:権六、修理亮
居城:越前北ノ庄城


■織田信秀、信長の二代に仕えた織田家の重臣。   尾張国愛智郡に所領を持ち、尾張守護・斯波家の一族、柴田土佐守の子と伝えられているが定かではない。

■主君・織田信秀が没すると信長の実弟・織田信行の家老となり、信長と対立。
信長の素行の悪さと所領が信行の監督地域だったことから林通勝らと謀り、信長廃嫡を画策。

■しかし、信長暗殺計画が未遂に終わると、勝家は軍馬を擁して信長と合戦に至る。
 だが、信長のずば抜けた用兵術の前に柴田軍は完敗に帰す。

■以後、勝家は信長に信服し、信長の重臣として活躍することとなる。
合戦後、信行は再び、謀反を企てる。が、勝家はかねてから信行の人事采配に不満を持っていたため、信長に信行の謀反計画を密告。

■信行謀反は失敗に終わる。   この功績により勝家は信長の重臣に取り立てられる。

■以後、勝家はその猛勇ぶりで常に合戦の先鋒を務め、『鬼柴田』の異名で諸将に恐れられることになる。

■1572年、近江長光寺城が六角勢に包囲される。   城の水源を絶って、日干し作戦に出た六角勢に対し、守将の柴田勝家は、残りの水瓶を全て割り、後がないことを兵士に悟らせ、決死の覚悟で六角勢の包囲網突破を決起する。

 背水の陣で臨んだ柴田軍の士気は非常に高く、六角勢の包囲をあっさりと突破することに成功する。   この逸話で”瓶割り柴田”の異名をとる。

■織田家臣団の最高の重臣として、北陸攻めの総大将を務める。

 浅井、朝倉攻め、越前一向一揆討伐など次々と軍功を重ね、1575年その恩賞として越前の支配を任される。

 居城を北ノ庄城に定めた勝家は、城下町の整備と道路整備、橋梁の整備と次々と都市建設に着手した。  北陸一の城下町を作り上げようとするなど治世としての手腕も振るった。

■能登、越中へと北陸を侵攻していった勝家だったが、北陸最大の武将・上杉謙信と対峙することとなり、1577年手取川で奇襲を受け、大敗を喫した。

■1578年、軍神・上杉謙信が病没したことで北陸攻めが楽になると統治領の加賀一向一揆征伐などを開始した。

■1580年、加賀一向一揆を漸く鎮圧し、北陸に平和を取り戻した。

■1581年、北陸統一まであと一歩まで迫ったことで北陸情勢の報告のため安土城へ赴いた勝家は、信長より恩賞として名物茶器の”蛯口の釜”を賜る。

■越中魚津城攻めで上杉景勝と対峙した勝家に本能寺の変の報が伝わる。

 強敵・上杉勢との対峙の最中だけに動くに動けず、秀吉に弔い合戦という油揚げをさらわれた勝家は、織田家一の宿老としての権限を失うことと成る。

■1582年6月、清洲城で開かれた清洲会議の席で、勝家の薦める織田信孝の織田家後継は秀吉の三法師後継の談議に屈した。

 機転と根回しを存分に駆使する秀吉に対し、正々堂々の戦いでしか力量を発揮できない勝家とでは、勝敗がこの会議にて決していたといっても過言ではない。

■泰山の如く何事にも動じず堂々とした勝家も変幻自在の水流の如き、秀吉の策略の前に次々と先手を打たれてしまった。  1583年3月、越前の雪解けを待ってからの出陣となった勝家軍が近畿へ出張った時には、秀吉の有利さが格段に上がっていた。

 賤ヶ岳で両軍が対峙すると、膠着状態となる。この戦況を打開するため、秀吉は、兵を分散し、本隊を率いて岐阜の織田信孝攻めに動く。

少数兵を賤ヶ岳に残すという妙策に出た。何かの策略と感じた勝家は賤ヶ岳を動かないが、勝家の甥にして猪武者として知られる猛将・佐久間盛政の熱心な出陣許可に押され、勝利後、すぐに兵を戻すことを条件に出陣を許す。

猛将の盛政隊は中川清秀を討ち取るなど快勝し、秀吉の引き払った陣跡を占拠。
兵を退かず勝利を祝って酒宴を開いた。

 柴田軍動くの報を知った秀吉は、疾風迅雷の如き素早さで大軍を賤ヶ岳へ戻すと驚く柴田軍を前に奇襲攻撃を断行。
 9000挺とも言われる大量の鉄砲を用いた秀吉軍は強敵・柴田軍を敗退させ勝利する。  勝家は、自慢の武勇を披露する暇も無く本国越前へ敗走した。

■秀吉軍の勝家追撃は凄まじく、態勢を整える暇を与えられない勝家は、北ノ庄城へこもり、茶々ら三人の娘を城から出し、壮絶な攻城戦を展開し、妻・お市の方とともに没した   。
享年57?



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