佐々 成政

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佐々 成政
さっさ なりまさ
1536-1588
享年53

名称:内蔵助、陸奥守

居城:尾張比良城→越中富山城 →肥後隈本城

■尾張国比良城主・佐々盛政の 三男として誕生。

■稲生の戦い、桶狭間合戦で兄 二人が戦死したため、佐々家 の家督を継ぎ、比良城主となる。

■成政は、若き頃に学者・千田吟 風から古今の名将の訓示や兵 法を学んだといわれている。

■成政は、武勇にひいで織田軍団 のエリート部隊である黒母衣衆 に抜擢されている。

■美濃攻略、上洛戦、伊勢北畠攻略、 浅井・朝倉攻めなど織田軍団の 数々の戦いに参軍し、軍功を立 てた。

特に、姉川の戦いでは軍功めざ ましく、佐々の鉄砲隊が初めて 二段戦法を考案。
二段構えの連射で織田軍に勝利 をもたらした。

■成政の姉川軍功は信長の記憶め でたく、長篠の戦いでは、鉄砲奉 行に任じられている。

成政の鉄砲指揮能力が非常に高 かったことをうかがわせる。

■1575年、越前一向一揆征伐で軍功 を立てた成政は、府中上二郡を与 えられ、小丸城を築く。

成政は、前田利家、不破光治とと もに府中三人衆と呼ばれ、柴田勝 家の与力となる。

■1582年、本能寺の変が起こると、 成政は居城・越中富山城にこもり 推移を見守る。

上司・柴田勝家が秀吉の戦いに 敗れ没すると不本意ながら秀吉の 軍門に下った。

成政は大の秀吉嫌いで知られる。 その秀吉の部下となることは、成 政にとって苦渋の決断であったこ とだろう。

■秀吉より、越中守護に任ぜられた が、織田信雄と徳川家康が結託し 、反秀吉の旗をひるがえすと成政 はこれに呼応。

成政は秀吉方の前田利家領内へ 攻め込んだ。前田領末森城を囲み 、奮戦した成政であったが利家本 隊が援軍に駆けつけると敗北。 越中へと退却した。

■戦況悪化の中、織田信雄が秀吉と 講和。徳川も和議に至ったことで、 孤立無援となった成政は、厳冬の 日本アルプス踏破というさらさら越 えを断行し、単身徳川の浜松へ赴 いた。
家康の本意を促すも不首尾に終る。

■1585年8月、秀吉軍が大軍をもって 越中に押し寄せると抗戦の構えを 見せていた成政も屈服し、剃髪して 秀吉に降伏した。

所領を新川郡20万石に減石された が、秀吉の九州征伐に参軍。九州 平定後、肥後一国を与えられた。

■成政の施策が国人領主層の反感を 招き、大規模な国人一揆が勃発。 九州諸大名の助けを借りて、鎮圧 するという失態を演じた。

■1588年1月、成政は謝罪のため大 坂へ向かったが途中、尼崎の法園 寺にとどめられ、ほどなく切腹命令 を受け、同地に没した。
享年53歳。

武人として優秀だった成政も、先見 の明を秀吉に見出せなかったことが 活躍の場を失う結果となった。



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