羽柴 秀吉

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羽柴 秀吉
はしば ひでよし
1536-1598
享年63


名称:日吉丸、木下藤吉郎、平秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉、筑前守、従五位左近衛少将、従四位下参議、従三位大納言、正二位内大臣、関白、太政大臣

居城:美濃墨俣城→近江長浜城→播磨姫路城→摂津大坂城→山城聚楽弟→山城伏見城

■織田家足軽・木下弥右衛門の長男として誕生。
母・仲は伊賀の忍者出身といわれる。

■1551年 15才   駿河今川家の家臣、久納城主   ・松下之綱に仕え、之綱の寵   臣となる。

■1554年 18才 出世に頭打ちとなった松下家から離反した秀吉は織田信長に仕官し、草履取りとなる。

■生来の明朗闊達な性質と人心をよく推し量り察することに素早い上に難易事にも熱心だっことから信長の目にとまり、小者から士分に取り立てられた。

■台所奉行となった秀吉は、台所の節約で変革をもたらし、見事節約に成功。   
逸材の片鱗を早くも見せる。

■台風で壊れた石垣の修理を一ヶ月以上かかるところを三日で修築すると大風呂敷を広げた秀吉は、三日三晩昼夜問わずのチーム制をしく。
早く仕上げたチーム順に褒賞額を大きくする工夫で見事、三日で石垣の修築工事を仕上げた。

■武功を一度も立てる事無く、節約と修築の工夫で侍大将にまで成った秀吉は、美濃攻略に際し、織田家重臣の末席に座すことになる抜群の軍功を立てるのである。   
一夜城を立てると公約した秀吉は今で言うプレハブ工法を用いて、事前に木材の加工を施し、河川で建築場まで流すという妙策を実施した。

  事前に調略して味方にしてい   た野ぶせり6000名とその頭目   蜂須賀小六とともに奮闘し、   斎藤軍の攻撃を凌ぎ、十日   ほどで墨俣城を築き上げた。

■織田軍の美濃攻めの足がかりとなる重要拠点の確保に成功したことで秀吉は織田家臣団に武将として名を連ねることとなる。

 初めての居城墨俣城も得るなど脅威の出世をした秀吉は、その後、美濃斎藤家の美濃三人衆や知将・竹中重治を調略し、織田家に引き込むなど抜群の働きを示した。

■信長の上洛戦が一段落ついた1570年4月、織田軍総勢の朝倉攻めに参軍した秀吉は、浅井の謀反を目の前とする織田軍壊滅の危機に直面する。
 この時、秀吉は殿軍を勤め、”逃げ上手の秀吉軍”と評されていた汚名を一蹴する奇跡の金ヶ崎の退きという大役を果たした。

■同年6月、姉川の戦いに参陣した秀吉は大いに活躍し、1571年の志賀の陣では信長の危機を救出する武功を立てた。

■1573年、浅井氏を漸く滅亡させた信長は、織田家飛躍の足がかりとなる武功を立て続けてきた秀吉への恩賞として浅井氏の旧領近江12万石を与えた。

 秀吉は、信長の恩に感謝して今浜城を居城とするに際して今浜の地名を信長の長を取って長浜と改名し、長浜城を修築して居城と定めた。

 織田家屈指の大名家臣となった秀吉は、上司の嫉妬を回避すべく、木下姓から上司の柴田勝家、丹羽長秀の苗字から一字づつ取り、あやかるという名目で羽柴姓に改名した。

■1577年、西国管領に就いた秀吉は、中国経略の総帥として出陣。播磨三木氏、因幡吉川氏らを討った。
毛利の名将・清水宗治を備中高松城に攻め、水攻めという奇策で城を包囲していた秀吉の元へ本能寺の変の報が伝わる。

 秀吉は急遽、京へ引き返すべく、高松城主・清水宗治の切腹と引き換えに城兵を助ける講和を毛利氏と結び、神業といわれる中国大返しを断行した。

■信長の弔い合戦に向かう秀吉軍に途中、織田信孝、丹羽長秀、池田恒興らが参軍。
山崎の戦いで圧勝した秀吉はこの後、天下人への階段を一歩一歩着実に上っていくことと成る。

■1582年6月、清洲城で開かれた清洲会議で織田家一の宿老・柴田勝家が推す織田信雄信孝らの後継談を退き、織田信忠の嫡子・三法師を後継に据える後継談を披露。自ら三法師の後見役に就き、織田家の主権を牛耳る。

■1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を大敗させなど織田家の反抗勢力をことごとく排除した。

■1584年、織田信雄の秀吉反旗から小牧・長久手の戦いが起きる。
小牧・長久手の戦いで初めて秀吉に苦渋をなめさせた強敵徳川家康が現れる。武田信玄が確立した戦国最強の兵法を旧武田家臣を召抱えることで自軍に吸収した徳川家康を力攻めで屈服することは不可能と悟った秀吉は、反旗の決起人である織田信雄を抱き込み単独講和を結ぶ。
 徳川方の大義名分を失わせ兵を退かせることに成功する。

■近畿など旧織田領の統治を強めた秀吉は四国平定などを実施し、領土の拡充に務める一方、かつて朝廷を排除しようとした主君・織田信長の強行政策を反省し、朝廷との関係強化を目指した。

■織田信長以上の巨大な組織を完成しつつある秀吉にとって、天下統一の決定ともいえる四国・九州征討を実施するに当たって、強敵・徳川家康を後方に背負っての征伐は不可能と判断。
 実妹・朝日姫の家康への嫁ぎを行い親族となるも家康の心を懐柔することはできず、苦心の末、実母・仲を人質として家康の元へ送ることとした。

■この懐柔策には、家康も屈し、秀吉の元へ臣従することとなる。

■1585年3月、紀州根来寺、雑賀の衆徒平定。同年6月には体調を崩した秀吉に代わり、実弟・秀長を総大将に据え、四国平定戦を行い、長宗我部元親を降伏させた。
同年8月、秀吉嫌いの勇将・佐々成政を越中にて破り、軍門に下らせる。

■着々と天下統一戦をこなす秀吉は、内大臣から関白に進み聚楽弟を造営し、朝廷との関係を充実させた。


■1586年12月、人身としては最高の位である太政大臣に上りつめた。
ついで、関白となるために近衛前久の養子となり、藤原姓に改名する。その後、朝廷より豊臣姓を賜り、豊臣秀吉と改名する。

■1587年、九州征伐の先鋒隊長宗我部信親らの敗退という事態も気にせず秀吉軍本隊が九州入りする頃には、島津軍は九州各地で敗退。
秀吉軍の軍略は大軍の隅々まで統制され、戦上手の島津軍でさえも歯が立たないほどだった。

島津家当主・島津義久は剃髪して降伏。当主・義久の隠居と薩摩・大隈以外の領土没収で九州平定は完了した。

■九州平定を成した秀吉は、北野の大茶会を催し、「麦焦がし一掴みあれば誰でも参加せよ」と貴賤の参加を問わず、民衆から人気を集めた。

■1588年、刀狩令を出し、大仏建立を口実に民衆から武装を解いた。

■1589年、民衆平等をうたうキリシタン禁止令を出し、宗教統制を行う。

■1590年、関白の許可無く戦をすることを許さない法度を破った北条氏討伐を決行。
 関東・東国を除く全国から大名に出兵を促し、20万を超える兵員を率いて北条氏を追い詰めた。

 20万余りの大軍では兵糧がもたないと考えた北条氏は、一年以上も立てこもれる兵糧を蓄えた小田原城に篭城した。しかし、数ヶ月過ぎても撤退しない秀吉軍に焦りだす北条軍を尻目に秀吉は小田原城を一望できる山城を密かに築き上げ、三ヶ月足らずで完成。城を隠していた大木を全て伐採し、篭城する小田原城兵に見せつける演出を行う。”秀吉は神か天狗か”と北条兵はうろたえる中、ついに北条氏は降伏。

 徹底抗戦を主張した北条氏政・氏照兄弟は切腹。
若き北条家当主・北条氏直は徳川家康の娘婿であったことから命は免れ、高野山へ追放処分となった。
ここに北条早雲以来関東で栄えたの北条五代の歴史もむなしく北条氏は滅亡した。ついで、秀吉は天下統一を完成させた。

■天下統一を成し遂げた秀吉にとって、組織拡大の頭打ちは自滅を意味していた。
 秀吉の権勢は、組織拡大で得た莫大な富を家臣に分配するという形式で成立していたものであり、その強度は、ガラス細工程度のものでしかなかった。   商人からの莫大な借金などができたのも組織拡張によって見込みの出る利益ですぐに埋めることができるところにあり、秀吉の組織拡大で得た暴利を永久的に得たいとする多くの人々の期待が秀吉の方にのしかかってきた。

■朝鮮半島、中国大陸、インド大陸と当時知られていた世界地図の土地を制覇する壮大な夢を持った秀吉は、1592年朝鮮出兵を断行した。

■当時、平和だった朝鮮半島では、激戦を潜り抜けてきた戦国武士の乱入に対抗できなかった。中国明王朝の協力を得て、漸く抵抗戦を展開することとなり、1597年の二度目の朝鮮出兵では、泥沼の戦いとなった。結果として秀吉が没したことで出兵は中止となり、その後、講和へと成った。

■1593年、秀吉の側室・淀殿が秀頼を生むと、秀吉政権の基盤が揺らぎだす。既に秀吉より家督を継いでいた秀吉の甥・豊臣秀次の立場が微妙になってきたからである。1595年秀吉との確執を埋めることができず関白・秀次は切腹となり、秀次の側室や子供らは斬首となった。

■1598年8月18日、秀吉は幼い嫡子・秀頼の行く末を案じつつ伏見城にて没した。   享年63歳。   秀吉辞世の句「つゆと落ちつゆと消えにしわが身かななにはのことはゆめの又ゆめ」が知られている。



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